【 川奈まり子の実話系怪談コラム】 まれびとの顔【 第四十六夜】

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5歳の頃、住んでいた世田谷の町には、頻繁にチンドン屋が現れた。

チンドン屋は、新劇にでも出そうな時代装束を着込んで大きな髯を結ったかつらをかぶったりピエロの格好をしたりと派手ななりをして、鉦や太鼓を文字通り 「チンドン、チンドン」鳴らしながら通りを練り歩き、広告宣伝の口上を述べる商売だ。

だいぶ少なくなったが、人の話によると今でもどこかにいるらしい。私自身は、もう何年間も、まったく見掛けていないが。

私が幼児の頃……というと、四十数年も前になるけれど、その当時は本当に多かった。

世田谷でも閑静な住宅街には全然来ないが、三軒茶屋など繁華なところに行くと、毎日のようにチンドン屋に逢うことができた。


小さな子供にとってはチンドン屋は憧れの的で、それはテレビの中にいる歌手や有名 なスポーツ選手への憧れとは別の種類の、もっと身近な存在でありながら、何処ともわから ないよその世界から来て、そして再び去っていく者たちへの羨望であり、夢だったのだ と思う。

まわりの大人たちと違う不思議な格好をして突然やって来ては、風のように去っていく。

ほとんどいつも親や幼稚園の先生の監視に行動を縛られている幼児としては、憧れずにはいられなかった。


そういう意味では、セールスマンにも魅力を感じていた。

予告もなく玄関を訪れては、布団やカーテン、常備薬、大箱入りのマッチ棒などを 「買いませんか?」 と言ってくる。

こういう突撃型のセールスマンは、今やチンドン屋以上に絶滅種だろう。

私が幼い頃は、家族で住んでいたアパートによく現れては、ほとんどの場合、母や祖母に追い返されていた。


チンドン屋もセールスマンも、今にして思えば、折口学でいうところの「まれびと」の一 種だ。

民俗学者の折口信夫は、見知らぬところから来る芸能者や鋳物師、行商人などの移 動職業民や、広義の意味での「客人(まろうど)」を「まれぴと」と呼んだ。

そして、まれびとは本来「神」であり、その神は常世の国から現世に来訪することなど を現存する民間伝承や記紀から推定し、まとまった概念としての「まれぴと論」を形成した。


折口学のまれびと論は、昨今では、学問的な客観性に欠けるという批判もある。

しかし、折口信夫の『古代研究』に収録されている『国文学の発生〈 第二稿〉』という論文で、沖縄におけるフィールドワークによって、まれびとの概念を着想したなどと書かれているのを読むと、遥か海の彼方のニライカナイヘの憧憬を掻き立てられ、強く惹きつけられるのだ。


ニライカナイは、沖縄県や鹿児島県奄美群島に伝わる理想郷で、常世の土地ではなく、年の初めには、そこから神が訪れてきて、此の世に豊穣をもたらすと言い伝えられている。
そして、ニライカナイと言えば、波照間島である。

と、言っても、ご存知ない人には一向にピンとこないだろうが、波照間島という沖縄県は八重山諸島の、日本で最南端の島があり、そこにはニライカナイ伝説と通じるパイパティローマの伝説があるのだ。

パイパティローマは、島言葉で「南(パイ)の果ての(パティ)サンゴ礁(ローマ)」という意味だ。

漢字で「大波照間島」あるいは「南波照間島」と書くこともある。

ニライカナイは辰巳の方角(東)にあるそうだが、パイパティローマは波照間島のさらに南方に位置し、ニライカナイと同じように、天国のごとき楽土であるとされている。

琉球王府が記録した『八重山島年来記』によると、1648年、波照間島平田村の人々4、50人が、海を越えて、そこへ渡っていったという。

重い人頭税に苦しめられたあげくの逃亡だったとされているが、彼らは本当に、波照間島を出ていったきり、二度と帰ってこなかった。


四十を過ぎてから何度か訪れた波照間島で、最南端の碑が建つ高那崎から眺めた海は、どこまでも遠くへ青い水面を繰り延べていて、まるで果てがないように見えた。

この海原をずうっと真っ直ぐ南下すると、フィリピンのルソン島に到着すると聞いたが、17世紀、平田村の人々は、こんな海へよくぞ漕ぎだしたなとも思うのだ。

さぞ、恐かったろう。目的地が、まるで見えないのだから。青い荒野を潮風ばかりが吹き渡る。

波照間の海は、「波照間ブルー」と呼ばれる、エメラルドがかった眩しいライトブルーの色を誇っている。

水そのものが蛍光を帯びて輝いているではないかと思うほど、独特の強く光るようなブルーが沿岸部を取り巻いているのだ。夏場には、ことにこの色彩が激しい。

島から遠ざかるにつれ、海の色は暗くなる。紺碧から群青へ。そして水平線で淡くかすんで、空の蒼と一体になる。

生きとし生けるものの魂はニライカナイより出で、死ねば再びニライカナイに去るとも言われている。

伝説の浄土は、島を逃れた村人を温かく迎え入れてくれたのだろうか。


2012年の夏に、家族で波照間島へ行ったときのことだ。

その頃、7歳だった息子と一緒に、私はニシ浜で泳いでいた。息子も私も泳ぎは達者で、2人とも足ひれとシュノーケルを着け、素潜りして遊んでいた。

ニシ浜のサンゴ礁は、それはもう見事なもので、波打ち際から200メートルも行ったリーフの端を外から見ると、高さのあるビル群のようにサンゴの層が連なっている。

そこを大小さまざまな魚が行き交い、時には海亀も泳いでくる。

後ろに目を転じると、肌理の細かい純白の砂が敷き詰められた海底が広がっていて、先へ行くほど暗くなり、水で出来た紺色の宇宙の彼方へ消えていく。

そちらへ行けば死んでしまう。

本能がそう告げるので、私と息子はリーフから決して離れず、頭を浜の方へ向け、度々岸辺を目視して、距離と方角を確認していた。

引き潮のときに沖へ流されないように気をつけなければならない。

波が高くなれば、満ち潮も危険だ。サンゴ岩に叩きつけられたら、一環の終わりである。

美しい熱帯の海は、気を緩めれば、一転して青い地獄となる。


一週間ばかりの滞在の、終わり頃のことだ。

ニシ浜に毎日通っているうちに、息子に大きな白い魚の友だちができた。

この辺に多いアオブダイでもハギの仲間でもない、体長が1メートル以上ありそうな白っぽい肥った魚だった。

それが、リーフの外側で、私と息子を待っていて、私たちの姿を見るや、円を描きながら近づいてきて、次第に半径を狭め、しまいに息子の周りをくるくると回りだす。

そんなことが3日、4日、続いていた。

息子を餌だと思っているなら恐ろしいことだが、まったく攻撃はしてこない。

スズメダイのように突いてくるわけでもなく、上へ下へ、息子を視界にとらえながら、面白そうに周りを泳ぎ回るだけだ。

はじめは息子が持っていた、魚寄せの魚肉ソーセージが目当てだったに違いない。

が、餌が無くなってもそばを離れようとせず、踊るように泳ぎ回るのだった。

息子は7歳にして10メートルも垂直潜行できてしまう、河童のような泳ぎの才に格別に恵まれていたので、魚は、あるいは仲間だと思ったのかもしれない。

大人の私には、その魚はあまり近寄ってこなかった。

子供にしては筋肉質の、逞しい体つきをした息子が、達者な泳ぎで水中に輪を描いてみせる、と、魚も真似して輪を描く。

それはそれは幻想的な光景で、私は夢中で、彼らを目で愛でた。

そのときは、ことに、息子も魚も調子がよく、竜宮城の鯛や平目の舞い踊りとはこういうことだろうと思うほどだった。

楽しく眺めているうちに、いつのまにか、私は沖の方を向いてしまっていたらしい。

海の彼方から、潜水した何かが近づいてくるのが見え、咄嗟に、自分たちがしばらく頭を浜の方に向けていなかったことに気がついた。

急いで後ろを向いて、頭を水面に出し、岸辺を確認する。

大丈夫。潮に流されてはいなかった。

少し安堵しながら、再び、沖の方からこちらに接近してきたものに視線を戻した。

亀か、翼は見えなかったが、イトマキエイだろうか、と思った。

……人だった。

裸の男、しかも相当な年寄が、シュノーケルどころかゴーグルすら足ひれすら着けずに、潜って泳いでくる。

海面から1メートル以上、潜ったまま、息継ぎをせず、飛ぶように近づいてくるのだ。

息子も気づいて、不安そうに私に近づき、手を握ってきた。

母子で手を繋いで、見守るなかを、老人は水を縫ってやってくる――バタ足ともドルフィンキックともつかない、その中間のような泳ぎで、腕は使わず、静かな、優雅な泳ぎっぷりだった。

七十歳は越えているだろう。もっと歳がいっているかもしれない。顔も体も、一面に皮がたるんで皺ばんでいる。

しかし、太からず細からず、健やかで頑健そうな体つきで、上背もありそうだ。

擦れ違うとき、彼が褌を穿いていることに気がついた。白い褌であるようだった。

実際には、彼に気づいてから擦れ違うまで、ほんの3分弱の出来事だったのだと思う。

私たちの横を行き過ぎるとき、老人は穏やかに微笑んでみせた。

瞳が、鈍い銀色をしていた。

あるいは、単に白内障なのかもしれないが、魚の眼のように底が光っているように見えた。

取り残された私たちは、少しの間、呆気にとられて、彼を見送っていたが、やがて潮が引いてきたのに気がついて、浜へと急ぐことにした。

干潮になると、サンゴ礁の上を泳いで帰れなくなってしまう。

老人が来なかったら、リーフの外に閉じ込められていたかもしれないと思うと、ゾッとした。

サンゴと岩の壁が立ちはだかり、外洋に閉じ込められてしまう。それは、引き潮にさらわれるのと同じくらい、絶対に避けねばならないことだ。

生きたサンゴは、じかに触れれば、毒にやられて火ぶくれのような酷いかぶれを起こす。また、サンゴ岩は剃刀を滅茶苦茶に埋め込んだようなもので、うかつに手や膝をついたら、ざっくりと肌が切れる。

ニシ浜のこのあたりでは、干潮のときにリーフの外周あたりを歩いていた観光客が、波にさらわれて亡くなったことがあるそうだ。

外側に落ちたが最後、這い上がれなくなったのだろう。

満潮を待てば泳いで戻れるが、焦って無茶をしたり、あるいは波が強くなったりすれば、岸壁に擦れてたちまち全身が傷まみれになり、溺れてしまうに違いなかった。

白い大きな魚は、いつのまにか姿を消していた。

私と息子は、なんとなく、手を繋いだまま、引き潮に逆らい、岸に向かって泳いだ。

砂浜に辿り着いてから、息子は怯えた顔を私に向けた。

「怖かったね、おかあさん。あのお爺さん、どこから来たんだろう?」

それもそうだが、それ以上に説明のつかないことがあると私は思っていた。

老人は、一度も息をしていなかった。

通り過ぎざまに見たときも、鼻からも口からも、一粒の泡も吐いていなかったのだ。


八重山諸島で私自身が体験した不可思議なことはそれぐらいのものだが、人から聞いた話なら、他に幾つかある。


そのうちの1つは、石垣島のタクシー運転手から聞いた。


私は観光旅行のために、ここ10 年近く、毎年、多い年では年に3度も、沖縄県の八重山諸島に行っている。

白い魚や謎の老人に遭遇した年の前年、たしか、2011年だったと思う。

私と夫と息子は、前もって予約しておいた西表島の宿に移動するために、石垣島の空港から離島桟橋へ向かうタクシーに乗っていた。

まだ、離島桟橋から遠い白保北の盛山に「南ぬ島石垣空港」が開港する前のことで、真栄里にあった旧石垣空港から離島桟橋までは、タクシーに乗れば、ほんの15分ほどだったろうか。

陽気な、話し好きのタクシー運転手だった。

見事な白髪頭から推すに還暦は過ぎていそうだが、八重山の男性に多い肉厚で頑健そのものの体つき。彼は車を走らせ出す前から話し始めた。

あの、なんともいえず鷹揚であっけらかんとした八重山弁を、残念ながら再現できないので、標準語で彼の話を綴られせていただく。


「お客さん、離島桟橋の近くに、とても良い土地が空き地になってるから、あとで見て みるといい。土産物屋でも旅館でも、建てれば必ず流行りそうな場所なのに、店や何かが出来ても、しばらくすると潰れちゃう。

夜逃げしたり、主が急死したり、火事が起きて建物が焼けたり……。

何ヶ月と持たないから、それで凄く強いセジ(霊能力)があるユタに、そこを見てもらったことがあるんだって。

そうしたら、この土地は龍神様の通り道で、龍神様のお怒りに触れるから、ここに何か建てても難しいだろうという、託宣があったそうだ」


ユタとは民間の霊能者・霊媒師であり、かつ、占い師であり、 地域のよろず相談事請負人でもある女性である。

沖縄では 「ユタ半分、医者半分」 と言われるほど古来から頼りにされている、生ける大地母神的な存在、それがユタだ。


「住んだり商売したりしちゃいけない土地というのが、やっぱりあるんだなぁと思ったよ。

俺の幼馴染も、それで弟を亡くしたんだ」


亡くしたとは穏やかではない。何があったんですか、と私は訊ねた。


「俺もそうなんだが、幼馴染のうちは代々漁師で、俺は漁師だけじゃ食っていけないからタクシーなんかやってるわけだけど、幼馴染のところは旅館を始めた。

それが、そこそこ当たったんだが、弟が気を腐らせた。

というのも、旅館で、下男みたいな扱いだったから。

でも、仕方がないんだ。幼馴染は長男だし、高校をちゃんと出て、那覇のビジネススクールにまで行ったけど、弟っていうのは勉強が大嫌いで中学でも劣等生だった。

だけど、車や船はやれるし、力は強いという男だったんだ。

今から20年も前になるが、幼馴染はとっくに結婚して子供もいたが、弟は四十近くなっても、まだ独身だった。

それで、腐った。いい歳して、世をすねて、毎日飲んだくれて、もうどうしようもなくなった。家族の厄介者さ。

ところが、急に、旅館に泊まっていた女のお客さんを口説いて、男女の仲になったかと思うと、結婚したいと言い出した。

どこから来たのかわからない女の人だよ?

連れもいなくて、独りで来て、10日も宿泊予約してたそうなんだ。

荷物もほとんどなくて、弟と付き合いはじめる前は、毎日、独りで浜辺でぼんやりしてたんたって」


それは怪しいですね。

私がそう言うと、バックミラー越しに運転手はうなずいた。


「うん。自殺でもする気なんじゃないかって、幼馴染は心配してたそうだよ。

だけど弟と付き合い始めたら、人が変わったみたいになって、結婚してやるから、旅館の裏の海沿いに、家を建ててくれと言いだしたそうだ。

幼馴染のうちは、昔からその場所に少し土地を持っていたんだ。

女は、弟とそこに住んで、商売をしたがった。

幼馴染は、いったんは断った。

幼馴染の伯父さんが、返還してすぐの頃に、その場所で夏だけ開ける食べ物屋をやったんだが、流行らなくて、破産して奥さんと無理心中したんだって。

それきり、放ってあった土地だったから」


1972年の沖縄返還から2、3年後に、沖縄を訪れる観光客が激増した時期があった。

復帰直後は44万人だった観光客が、1975年には156万人にまで増えたという。

しかし当時は沖縄本島が観光産業の中心で、石垣島の隅々にまでは、ブームの波が届かなかったのかもしれない。


「真栄里ビーチみたいな有名な場所じゃなかったし、いわくつきの土地だから、買い手もつかなかったんだろう。

そこで幼馴染の弟と女は商売を始めた。水道は引けてたから、喫茶店みたいなのに、ゴムボートや何か、海のものを貸しだす場所や簡易シャワーの設備を付けて、夏中稼ぐつもりだったみたいだ。

冬は店を閉めて、兄貴の旅館の手伝いをするか、俺みたいにタクシーの運転手をやれば、夫婦でなんとか暮らせるだろう。

俺は、お祝いに行こうと思っていた。

幼馴染から話を聞いていたから、見てみたかったんだ。海辺の店も、その女の人も……なんでも凄い美人だということだったし……。

ところが、俺が行く前に、弟は船で海に出たまま行方不明になって、すると女のようすが変わって、まるで別人になってしまったんだそうだ。

ようすと言うより、顔が、違ってしまったんだって。

……わけがわからないよね?

俺も、最初に聞いたときはわからなくて、何度も聞き直した」


男が海で失踪したその日から、美しかった女の顔は、別人のように変わってしまったのだという。

それも、肌が荒れた、やつれた、というものではなく、造形からしてまったく別のものになったのだそうだ。


「最初から、そういう顔だったんじゃないかって、俺は幼馴染に訊ねたが、違うって。

幼馴染は、スッキリした切れ長の目の和風の顔だちの女の人が好きだったんだが、女の顔は、最初はちょうどそんなタイプだったって。

でも、奥さんは、違うよ、ハーフみたいな派手な美人だったじゃないのって言ったんだそうだ。

おまけに、旅館の従業員も、全員、違うことを言う。

綺麗な女だったという点だけは一致してる。

でも、あとはみんなバラバラで、別の女のことを話しているみたいになった。

それで、幼馴染と奥さんは、前に撮った女の写真を見て確かめたんだが、どの写真も、今の顔になっていた。

そのうち、女はフッと行方をくらましてしまったんだって。

きっと、みんなに顔のことで騒がれるのが厭になったんだろうな。

弟と女は、まだ籍を入れていなかったから、それっきりになったと聞いてるよ」


醜く変わったのか、最初から醜かったのか、それはわからないが、どのぐらい見苦しい顔だったのか気になり、運転手に訊ねると、彼はまたバックミラーで私のことを見た。


「人じゃないみたいに、おかしな顔だったと幼馴染は言ってたよ。

怖いほどの不細工だったそうだ。魚か何かが人間の女に化けて、化けそこねたようだったって。

あいつは、ふだん口が悪い奴じゃないから、よっぽど凄い顔だったんだろう。

それでまた、俺はつい興味がわいて、写真を見せてくれと頼んだんだが、女が全部、持っていってしまって、一枚も残っていないんだと。

幼馴染の弟の船は、しばらくして沖合を漂流しているのが見つかった。

でも、遺体は見つからずじまいで、幼馴染やその家族は、あの女に海に引きずり込まれたんだろうって言ってる。

あの女は海から来て、また、海に帰っていったに違いないって、みんな信じてるのさ」

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(文/しらべぇ編集部・川奈まり子

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Sirabee編集部

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